秀頼糾弾として名高い『方広寺鐘銘事件』
国家安康 君臣豊楽 の銘を、家康の名を分断して呪い、豊臣が楽しむと言いがかりをつけたというのは有名である。 ここでは秀頼は和平論者だったが、最後は淀君の気性の激しさが災いして開戦に踏み切った感じか。 加えて家康の二枚舌(大倉卿には『豊臣を貶めるつもりはない』といいながら、片桐勝元には『秀頼が大阪を出るか、淀が人質になる』という難題を突き付ける) が、豊臣家臣の分断を加速させた。 秀忠や江も和平論者で、淀に手紙を送ったりしているが(その史実はないんじゃないか?)。 家康も焦っていたのであろう。 家康は『争いの火種をもみけすため』と開戦の理由をはなす。 かねてより様々な工事を行わせ、豊臣の財力を削減してきた家康だが、ここで一気に片をつけたかったのであろう。 片桐且元は豊臣に力がないことを誰よりも理解していたと思う。 でも家康の策略と、周囲が疑心暗鬼に陥ったことで追放されてしまう。 ときに9月26日 さて、竹千代は最近、高飛車な態度が多くなっていく。 成人してからの家光も癇癪が強かったという話であるが、同時に世子として、プライドをもちたかったのであろう。 大坂の陣は彼の眼に、どう映るのやら。 今回のおまけ 大阪環状線 JR大阪城公園
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