昔から描かれてきた竹千代(家光)と国松(忠長)の争い。
どもりがひどかった竹千代に対し、明るく活発で才気ばしった国松。 江や秀忠は国松の方をかわいがったとされるが、家康や福は竹千代を指名していた。 家康の鶴の一声で竹千代が世子になるのだが・・・。 この理由に関しては、家康の『長子単独相続が争いを抑えられる。』という持論があったらしい。 鎌倉時代まで分割相続だった領地は、領地の分け前が少なくなるという理由から単独相続になったが、領地をめぐって兄弟同士の争いが多かったという。 足利義満は守護大名の相続欲をちらつかせて大名の弱体化を誘った。 応仁の乱は守護大名の権力闘争が足利幕府の権力闘争と重なって大乱となった。 その理由があったからこそ、家康は長子単独相続を頭の中で決意していたようだ。 いつの時代も風見鶏は多かったらしい。 給仕も侍女も、国松が次期将軍になると思って国松に取り入ろうとする。 まあ、あんな所を見ていれば当然か。 人見知りの激しい竹千代に対し、国松は積極的に両親に接している。 竹千代は幼少期から福にしかなつかなかったようだ。 歯が生えてからも福の乳を吸ったりと、奇行が多かったという。 さて、江の直談判では、あくまで竹千代を一応後継ぎとしておく、場合によっては国松が次期将軍に・・・といったところらしいが、腹の中はいかばかりか。 竹千代は学問ばかりしていたようだが、これからの世の中は武芸だけでは成り立たない。人格と知識を集めるのもトップの務めでもある。 ある意味秀忠が直談判してもわからないのは仕方ないか。 かたや豊臣。 秀頼と千姫は本当の夫婦になりたいと思っているようだ。 豊臣と徳川とはいえ、二人の仲は良かったという話。 側室を招き入れるのも不満だったらしいが、のちに大坂の陣で処刑される子供も側室との間で生まれたという。 ただ、豊臣が天下を・・・という思いが淀の中で強かったようだ。 それは母性であろうか。 病に倒れた大姥局は暇をもらう。 最後に 「竹千代に母として向き合ってほしい。母は江しかいないのだから。」 「まっすぐで誰にも好かれる気性で、自信を持って進んでほしい。」 いい遺言ではなかろうか。 彼女もまた、市とは違う形で江の「母」だったのではないかとぼくも思う。 こののち、慶長13年3月17日に亡くなる。88歳。
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