足が不自由になりながらも、小寺家家老として、そして秀吉の軍師として復帰した官兵衛
かつての主君であった日和見の小寺政職も敵に回したことになったのですが・・・。 その職隆、家臣の裏切りに次々とあい、ついに官兵衛に捕えられることに。 この牢獄生活で、人間の醜い面と優しい面を両方味わった官兵衛だからねえ。 別所長治を切腹に追いやったあたり、よりやり方が厳しくなったように思える。 そして官兵衛がくだした判決は、死刑だった。 そして自分自身が執行しようとするも、思わずためらってしまう。 どんなにはた迷惑な主君でも、主君は主君というわけか。 史実では職隆はこの後、毛利氏の備後国鞆の浦へ落ち延び、4年後の1584年に没したという。 そのことを知った秀吉は、よいよいとなだめる。 さすがは人たらしか。 自分の甘さを責める官兵衛に対し、そういう男だから信用できると言いきる秀吉。 やはり上に立つ人は違う。 一方信長は、不行き届きを続けていた佐久間信盛を追放し、光秀にその家臣たちを任せることに。 信長が光秀を高く評価していることがわかる。 そして秀吉は、官兵衛に1万石を与えて大名にすることを決める。 半兵衛亡き後の軍師として、認められたというわけね。 そして家紋も完成させて、立派な大名になったというわけだ。
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