12月、八重の桜もいよいよクライマックス。
オープニングに登場する桜色の傘はおそらくCGだろうけど、結構よく作っていると思う。 綾瀬はるかが宙を見上げるシーンも復活して、雨の代わりに桜が待っていたけど、彼女もまた逆境を生き抜き、しかるべき場所に収まったという点を象徴しているのではなかろうか。 梶原兵馬が北海道根室で教鞭をとりながらなくなったこと、秋月悌次郎(胤久)が第五高等学校で教師となっていることを知る八重。 梶原兵馬は会津藩関係者のなかでも長く消息が不明であったが、昭和63年(1988年)に墓が根室市で発見された。梶原景雄と名乗っていたという。 会津で敗北した者たちは、山川家のように仕官する者もいれば、八重や秋月・梶原のようにずっと野にいた者もいる。 その中でも人は懸命に生き抜いて、そして死んだ。 襄もしかりなのだろう。 僕もしっかりと生き抜きたいし、夢をできる限り叶えて死にたいと思っている。 (襄は夢、というより志半ばだったけど。) 明治22年(1889年)11月28日、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、その後回復することなく明治23年(1890年)1月20日、急性腹膜炎で死去した。 とは以前書いた。 新島八重が直接襄のもとに赴き、襄を看取ったというのは史実かどうか不明だが、最後まで、『良き夫婦』であったことを強調したかったんだろうと思う。 その後同志社の生徒とは折り合いが悪く、疎遠になったという話だから、嬢が八重にとってどれだけ大きな存在だったかどうかわかる。 日本赤十字社の正社員になることを、兄の覚馬から勧められた。 ともあれ襄の死になかなか立ち直れなかったのは人情だったろう。 激昂して盲目なのに立ち上がるほど覚馬が熱にあったのかは分からぬが、会津人として、人間としての誇りを持って欲しかったのは確かだったろう。 実際に襄の最期を看取った不破ユウ(北里柴三郎の従姉妹)は、襄のこんな言葉を聞き取ったという。 「結婚というものは始めは人びとがおめでとうと八方からあびせかけるが、年月の過るうちには非常に大きな困難が起こってくるものだから、おめでとうどころのさわぎではない。 なぜ、神がこんなに反対の性格の人間を夫婦にしたかと考えさせる程性格においても相反していることを後になって発見して悩むことがある。 しかしこれも神が各々の性格を磨かしむるためになし給ふ御手のわざであるから益々相忍ばねばならない。」
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