八重が夜襲を仕掛けた次の日、頼母は会津城を去る。
秋月悌次郎が言うように、こういう皆が一同玉砕を唱えている中で、恭順論を唱える方が勇気があるとのこと。 そりゃあそうだわな。 ともあれ、何が正しいかは時代が歴史に書き残すというけど、頼母の判断が正しかったということになるのかな。 そしてアームストロング砲の飛び交う中で、八重は必死に抵抗をする。 大砲の銃弾を濡れぶとんで消し止めながら。 芸は身を助けるとはよく言ったもので、それが容保の目にとまり、大砲の火消しの仕方を教えることになる。 一度あった懐かしさと嬉しさは未だに残っているわけね。 松平容保も力付いたんだろうけどね。 そして女子供に鉛から銃弾を作る方法を教える八重。 父は八重が鉄砲を学んだのはよかったと初めて気づいたけど、それはあくまで結果論だからなあ。 でもここで偉人がまた生まれたとも言える。 そして偉人は京都でも。 岩倉は覚馬の建白書に一目置きながらも、あくまで会津攻略は貫こうとする。 ところでこの時の覚馬って、既に視力を失っていたのだろうか。 防戦一方の状況に追い込まれていく中で、佐川官兵衛が前線に出向くことに。 確かに勇敢な官兵衛だから、指揮官には向いているかも。 官兵衛は西南戦争まで生き残るという話だから、それだけしぶとかったと言えるのかも。 『戊辰の復讐』と叫んだのは彼だったのかもしれない。
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[編集] 【 2013/07/17 22:38 】
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