平穏な暮らしの頼朝。
政子との間には娘・大姫も生まれる。 大姫も政略結婚の中で親に翻弄されたといいかもしれない。 木曽義仲の息子・義高のもとに嫁ぐが、義仲が殺害された後に義高も処刑され、以後結婚を拒んで障害を終えたと言われている。 本当に人間の一生は何があるかわからない。 ところで、重盛はこの頃、重い病にかかっていた。 吐血から胃潰瘍、または背の腫瘍・脚気とも言われている。 「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」 とは日本外史の言葉であるが、温厚なふうを装っていても、裏はけっこう悩んでいたようだ。 清盛と後白河の間の調整に苦労していたものの、うまい方法を思いつかなかったらしい。 加えて弟・基盛の急死や、母違いの兄弟達の台頭が孤立感を深めていったようである。 愚管抄でも 『とく死なばや』 と言っていたらしく、かなり悩みが深かったことがうかがえる。 一方で かくの如きの時、必ず使を送られ殊に芳心(親切な心)を致されるなり(『山槐記』) イミジク心ウルハシク(『愚管抄』) 武勇時輩にすぐると雖も、心懆甚だ穏やかなり(『百錬抄』) といわれており、貴族には好かれていたようである。 今回重盛のもとに法皇がやってくる、というのは6月21日 実際にはこの1か月前に重盛は出家しているようだが、忠と孝との間で常に悩んでいた彼は、法皇をどう思ったのであろうか。 平家の安泰を死の床で重盛は頼んでいたようだが、彼の死後、院政が停止されると彼自身も考えてはいなかったのではあるまいか。 すごろくをさせた後白河法皇の腹の中は、平家を安泰にさせようという気がなかったのではないか。 昔の伏線がよみがえる中で、清盛・重盛は何を考えていたか。 重盛の死後、清盛の人事権も所有国の権限も後白河のものとなったようだ。 どうやら完璧にたもとを分かつつもりらしい。 そしてついに治承三年のクーデターが勃発。 清盛を止める者がいなくなったがゆえの暴挙だろうが。 重盛を失った悲しみもあったのかもしれない。 後白河法皇を蹴落とす形で、清盛は実質上トップに立った。 しかしそこからの眺めはさぞ醜いものだったに違いない。 乙前からも冷たい目で見られ、彼はどう思ったか。
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