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新島襄はこのころ、京都府顧問の覚馬の居候となっていたらしい。 多分食客といった形だろうけれど・・・。 腕の代わりに知識はあったんだろうな。 ただ、仏教勢力の抵抗を恐れて植村正直はなかなかキリスト教学校の開設をなかなか開いてくれないようで。 まあ流石に抵抗勢力とのごたごたを起こしたくなかったんだろうけどな。
川崎尚之助が肺病で亡くなったのは、 明治8年(1875年)3月20日。 江戸で手習いをしていたとも言われていたが、外国商人に訴訟を起こされ、逃走中に肺病で亡くなったと言われている。 その一方で会津のことについて守護職時代から綿々と書き添えていたらしいけど、これはフィクションと考えていいのではあるまいか。 戦ってきた、と言う覚馬の指摘はそのとおりだろうね。 「戦わなければ人は、負け犬にすらなれやしない」か・・・。
一方で旧友の時尾と再会し、彼女が斎藤一(今は藤田五郎)と結婚したと聞いた。 会津の人たちもそれぞれ幸せを掴んだようで。 松平容保は華族ということになっていて、東京で蟄居したことになっていたけど、会津まで来れたのだろうか。
そして、尚之助の死から離れられない八重を、鳥羽伏見の戦場に連れてくる襄。 三郎の死、父の死、そして尚之助の死。 それらの死を乗り越えて、新しい時代を生きなければいけないと諭す襄。 襄も志半ばでつまづいているからこそ、八重に寄り添いたいと考えたのか。 「本当は食客では肩身が狭いから八重の夫になった」と家族は言ってたが、 実際はどうだった?
何度も寺に懇願し、その度に総スカンを食う襄。 八重にとってその情けなさも距離を縮める原因だったんだろうね。
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