同志社英学校は襄の意思を引き継いで開くと。
一方1890年、帝国議会が発布された一方で、教育勅語が教育に持ち出された。 『和魂洋才』を理念とする明治政府は、どうしてもドイツのように(あるいは本居宣長の国学に基づいたか)、天皇(あるいは皇帝)のもとで一体となって・・・という意向が強くなっていったのだろうか。 一方で会津の汚名を少しでも晴らそうと、川崎尚之助の『会津戦記』を発表しようとする山川健次郎。 薩長にも忠義の心があり、会津が規則に縛られたまま戦いに臨んだと主張する覚馬に対し、健次郎はあからさまに反発する。 まあ会津人としては人情だろうなあ。 一方で健次郎は帝国大学の教官として身を立てることができたわけだけど、やはり会津人の頑固さがあったからこそ出世できたという見方もあるかもしれない。 剣がダメなら学問というやり方で。 そして覚馬は、最後の演説に出る。 弱きものを守り、自分の頭で全てを考え、そして、会津と同じ道を踏まないように、戦を学ばず。と説く。 最後の演説だけあって、臨終の言葉のように重くなるか。 そして、すべての力を使い切ったかのように倒れる覚馬。 今までの出来事が全て走馬灯のように思い出されるのは、やっぱ大河ドラマだから感じることか。 覚馬が死んだのは1892年。 新島襄が昇天した2年後のことである。 松平容保が死んだのは1893年12月5日 晩年は日光東照宮の宮司をしていたという。 自分の忠義の証である、孝明天皇からもらった御宸翰 最後まで明かさなかったのは、自分のせいで会津が滅びたという罪悪感もあったんだろうか。 会津戦争についてもなにも語らなかったという。 亡くなった者たちは、自分を励ましてくれている。との襄の言葉で立ち直る八重。 なんだか『篤姫』の篤姫と幽霊になった家定との再会を思い出すけど。 その中で日清が戦争を始めることに。 まだ清が『眠れる獅子』と呼ばれた頃の時。 その中で八重も、従軍看護婦として出て行くと大山巌に頼む。 周りの多くの人がなくなっても、立ち直っていくあたりは八重らしいね。 さすがはハンサムウーマン。 |
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12月、八重の桜もいよいよクライマックス。
オープニングに登場する桜色の傘はおそらくCGだろうけど、結構よく作っていると思う。 綾瀬はるかが宙を見上げるシーンも復活して、雨の代わりに桜が待っていたけど、彼女もまた逆境を生き抜き、しかるべき場所に収まったという点を象徴しているのではなかろうか。 梶原兵馬が北海道根室で教鞭をとりながらなくなったこと、秋月悌次郎(胤久)が第五高等学校で教師となっていることを知る八重。 梶原兵馬は会津藩関係者のなかでも長く消息が不明であったが、昭和63年(1988年)に墓が根室市で発見された。梶原景雄と名乗っていたという。 会津で敗北した者たちは、山川家のように仕官する者もいれば、八重や秋月・梶原のようにずっと野にいた者もいる。 その中でも人は懸命に生き抜いて、そして死んだ。 襄もしかりなのだろう。 僕もしっかりと生き抜きたいし、夢をできる限り叶えて死にたいと思っている。 (襄は夢、というより志半ばだったけど。) 明治22年(1889年)11月28日、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、その後回復することなく明治23年(1890年)1月20日、急性腹膜炎で死去した。 とは以前書いた。 新島八重が直接襄のもとに赴き、襄を看取ったというのは史実かどうか不明だが、最後まで、『良き夫婦』であったことを強調したかったんだろうと思う。 その後同志社の生徒とは折り合いが悪く、疎遠になったという話だから、嬢が八重にとってどれだけ大きな存在だったかどうかわかる。 日本赤十字社の正社員になることを、兄の覚馬から勧められた。 ともあれ襄の死になかなか立ち直れなかったのは人情だったろう。 激昂して盲目なのに立ち上がるほど覚馬が熱にあったのかは分からぬが、会津人として、人間としての誇りを持って欲しかったのは確かだったろう。 実際に襄の最期を看取った不破ユウ(北里柴三郎の従姉妹)は、襄のこんな言葉を聞き取ったという。 「結婚というものは始めは人びとがおめでとうと八方からあびせかけるが、年月の過るうちには非常に大きな困難が起こってくるものだから、おめでとうどころのさわぎではない。 なぜ、神がこんなに反対の性格の人間を夫婦にしたかと考えさせる程性格においても相反していることを後になって発見して悩むことがある。 しかしこれも神が各々の性格を磨かしむるためになし給ふ御手のわざであるから益々相忍ばねばならない。」 |
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同志社大学を設立しようとする新島襄だが、不治の病に倒れてしまう。
明治22年(1889年)11月28日、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、その後回復することなく死去したといわれているが、この時点で不治の病とわかっていたらしい。 八重は生きてほしいと願うけど、新島襄は死を恐れながらも、できる限り自分のやりたいことをやりたいと主張。 人は部分的だけど不死身の幻想に憑かれている。それを打ち砕かれ、余命残り少なしと言われた時、どうするか。 人は何のために生きてきたのかが根本的に問われる瞬間なのではないか。 襄にとっては、キリスト教学校を設立して、キリストの教えをみなに広げることこそが、自分の生きてきた意味なのではないか、と思う。 そして八重にとっては、そんな彼に尽くすことが生きてきた意味なのかも。 次回、襄の最期が描かれるみたいだけど 『狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん』 これをどう表現するのか、注目される。 |
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