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どんな嵐でも花は咲く ~八重の桜・最終話『いつの時代も花は咲く』感想~
1894年、日清戦争が勃発。
八重は従軍看護婦として広島の病院で働くことになる。
清の人間も手助けする彼女。
清の言葉までわかった・・・というのは作り話だろうが、意志の強い彼女のことだから、『心臓が鉄で出来ている』『白鳥ではなく鷲である』とよばれたナイチンゲールに例えられるのも当然かもしれない。
会津人がそれだけバイタリティがある人間かどうだったかは別として、八重が悔いなく生きたかったのは事実であったろう。

従軍看護婦に偏見をもつ者もいる中で、その中で頑張る者もいる。
徳富蘇峰がこの時ジャーナリストとして広島の大本営に行っていたのは事実で、参謀次長・川上操六、軍令部長・樺山資紀らに対しても密着取材を敢行している。この時に『収縮的日本』から『膨張的日本』に変化することを主張したのは確かで、ドラマでは戦意鼓舞を主張していたのも想像がつく。
後に三国干渉で、「涙さえも出ないほどくやしく」感じ、激怒して「角なき牛、爪なき鷹、嘴なき鶴、掌なき熊」と日本政府を批判し、国家に対する失望感を吐露したという。

蘇峰が時勢に流されていたかどうかはともかくとして、弟の蘆花とは不仲になったのは確かで、1903年に絶縁状『告別の辞』を蘆花は兄に渡し、その後は様々な場所で講演をしたという。
兄弟でも感じるところが違うということか。


飽くなき向上心と頑固さで自分を貫いていった八重。
母と姪が亡くなって一人になっても、常に向上心は失わない。
そのバイタリティがハンサムウーマン・宝冠章受章と呼ばれる名誉を与えたのだろう。

斎藤一は維新後藤田五郎と名乗り、明治26年(1893年)9月から、東京高等師範学校附属東京教育博物館(現・国立科学博物館)の看守(守衛長)に奉職。同校の撃剣師範を務め学生に撃剣を教える。
斎藤の剣術は無外流と呼ばれているが、激しい撃剣であったのは事実か。
時尾との仲は不明だが、最後まで付き添っていたことを考えると、悪くはなかったのかもしれない。

会津の若き家老として活躍した山川浩にも最期が訪れ、健次郎は会津の名誉回復のために書物を発表しようとしたようだけど、巌に止められそうになる。
大山巌にしてみれば、三国干渉で威信の低下した政府を守ろうとしたことなんだろうけど・・・。
敵役とはいえ随分存在感あること。


仙人のようになった西郷頼母。
この頃には政治運動から身を引き、会津に戻ったと言われている。
明治22年(1889年)から明治32年(1899年)まで、福島県伊達郡の霊山神社で神職を務め、辞職後は再び若松に戻ったという。
八重と頼母が会ったのかは不明だが、
逆境の中でも花は咲いていく。
人間として、人を動かし、懸命に生き抜くその姿そのものも花といえるかもしれない。 

ラストの八重が天を撃ち抜き、空が晴れていく姿はなかなか華やかだった。
こんなエンディングもありかも。
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【 2013/12/15 20:56 】

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さらば覚馬 ~八重の桜・第49話『再び戦を学ばず』感想~
同志社英学校は襄の意思を引き継いで開くと。
一方1890年、帝国議会が発布された一方で、教育勅語が教育に持ち出された。
『和魂洋才』を理念とする明治政府は、どうしてもドイツのように(あるいは本居宣長の国学に基づいたか)、天皇(あるいは皇帝)のもとで一体となって・・・という意向が強くなっていったのだろうか。

一方で会津の汚名を少しでも晴らそうと、川崎尚之助の『会津戦記』を発表しようとする山川健次郎。
薩長にも忠義の心があり、会津が規則に縛られたまま戦いに臨んだと主張する覚馬に対し、健次郎はあからさまに反発する。
まあ会津人としては人情だろうなあ。

一方で健次郎は帝国大学の教官として身を立てることができたわけだけど、やはり会津人の頑固さがあったからこそ出世できたという見方もあるかもしれない。
剣がダメなら学問というやり方で。


そして覚馬は、最後の演説に出る。
弱きものを守り、自分の頭で全てを考え、そして、会津と同じ道を踏まないように、戦を学ばず。と説く。
最後の演説だけあって、臨終の言葉のように重くなるか。

そして、すべての力を使い切ったかのように倒れる覚馬。
今までの出来事が全て走馬灯のように思い出されるのは、やっぱ大河ドラマだから感じることか。
覚馬が死んだのは1892年。
新島襄が昇天した2年後のことである。

松平容保が死んだのは1893年12月5日
晩年は日光東照宮の宮司をしていたという。
自分の忠義の証である、孝明天皇からもらった御宸翰
最後まで明かさなかったのは、自分のせいで会津が滅びたという罪悪感もあったんだろうか。
会津戦争についてもなにも語らなかったという。

亡くなった者たちは、自分を励ましてくれている。との襄の言葉で立ち直る八重。
なんだか『篤姫』の篤姫と幽霊になった家定との再会を思い出すけど。
その中で日清が戦争を始めることに。
まだ清が『眠れる獅子』と呼ばれた頃の時。
その中で八重も、従軍看護婦として出て行くと大山巌に頼む。

周りの多くの人がなくなっても、立ち直っていくあたりは八重らしいね。
さすがはハンサムウーマン。
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【 2013/12/08 20:43 】

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仕官しても、野にいても生き抜いた者たち ~八重の桜・第48話『グッバイ、また会わん』感想~
12月、八重の桜もいよいよクライマックス。
オープニングに登場する桜色の傘はおそらくCGだろうけど、結構よく作っていると思う。
綾瀬はるかが宙を見上げるシーンも復活して、雨の代わりに桜が待っていたけど、彼女もまた逆境を生き抜き、しかるべき場所に収まったという点を象徴しているのではなかろうか。

梶原兵馬が北海道根室で教鞭をとりながらなくなったこと、秋月悌次郎(胤久)が第五高等学校で教師となっていることを知る八重。
梶原兵馬は会津藩関係者のなかでも長く消息が不明であったが、昭和63年(1988年)に墓が根室市で発見された。梶原景雄と名乗っていたという。
会津で敗北した者たちは、山川家のように仕官する者もいれば、八重や秋月・梶原のようにずっと野にいた者もいる。
その中でも人は懸命に生き抜いて、そして死んだ。
襄もしかりなのだろう。
僕もしっかりと生き抜きたいし、夢をできる限り叶えて死にたいと思っている。
(襄は夢、というより志半ばだったけど。)



明治22年(1889年)11月28日、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、その後回復することなく明治23年(1890年)1月20日、急性腹膜炎で死去した。
とは以前書いた。
新島八重が直接襄のもとに赴き、襄を看取ったというのは史実かどうか不明だが、最後まで、『良き夫婦』であったことを強調したかったんだろうと思う。
その後同志社の生徒とは折り合いが悪く、疎遠になったという話だから、嬢が八重にとってどれだけ大きな存在だったかどうかわかる。

日本赤十字社の正社員になることを、兄の覚馬から勧められた。
ともあれ襄の死になかなか立ち直れなかったのは人情だったろう。
激昂して盲目なのに立ち上がるほど覚馬が熱にあったのかは分からぬが、会津人として、人間としての誇りを持って欲しかったのは確かだったろう。


実際に襄の最期を看取った不破ユウ(北里柴三郎の従姉妹)は、襄のこんな言葉を聞き取ったという。
「結婚というものは始めは人びとがおめでとうと八方からあびせかけるが、年月の過るうちには非常に大きな困難が起こってくるものだから、おめでとうどころのさわぎではない。
なぜ、神がこんなに反対の性格の人間を夫婦にしたかと考えさせる程性格においても相反していることを後になって発見して悩むことがある。
しかしこれも神が各々の性格を磨かしむるためになし給ふ御手のわざであるから益々相忍ばねばならない。」
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【 2013/12/01 19:30 】

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最期を前にして ~八重の桜第47話・残された時間感想~
同志社大学を設立しようとする新島襄だが、不治の病に倒れてしまう。
明治22年(1889年)11月28日、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、その後回復することなく死去したといわれているが、この時点で不治の病とわかっていたらしい。
八重は生きてほしいと願うけど、新島襄は死を恐れながらも、できる限り自分のやりたいことをやりたいと主張。
人は部分的だけど不死身の幻想に憑かれている。それを打ち砕かれ、余残り少なしと言われた時、どうするか。
人は何のために生きてきたのかが根本的に問われる瞬間なのではないか。


襄にとっては、キリスト教学校を設立して、キリストの教えをみなに広げることこそが、自分の生きてきた意味なのではないか、と思う。
そして八重にとっては、そんな彼に尽くすことが生きてきた意味なのかも。

次回、襄の最期が描かれるみたいだけど

『狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん』

これをどう表現するのか、注目される。
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【 2013/11/27 21:27 】

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駆け落ち かと思いきや ~八重の桜・駆け落ち感想~
今回は徳富健次郎と久栄の恋心がメインという感じか。
だんだんとホームドラマになってきているような・・・。

なかなか八重に心を開かない久栄に対して、八重は北海道への旅行ついでに日向ユキと再会し、自分の思った通りに進めばいいということを再確認。
わからないけど、八重は率先してみんなを引っ張っていくようなタイプだったのだろうか。

久栄の異母姉であるみねは24歳の若さで早世。
どうも久栄も22歳で早死するようで、一家揃って寿命が短いような・・・。
覚馬はみねの息子である平馬が山本家を次ぐようにするみたいだけど。


久恵と健次郎に母らしく接しようとする八重。
母らしく振る舞えたみたいだけど、健次郎は結局身一つで同志社を出て行ってしまって・・・。
人間いたるところ青山ありとは言っても、ちょっと無責任なような・・・。
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【 2013/11/19 20:45 】

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