1882年4月6日、自由党党首板垣退助(加藤雅也)が暴漢に刺された事件。
この時に板垣が叫んだ言葉、「板垣死すとも自由は死せず」という言葉。 実際には言っておらず、「痛い、医者を読んでくれ」と言ったとも、『アッと思うばかりで声も出なかった』ともいう。 自由党の臨時報にも「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」とあり、政府の密偵文章にも「吾死スルトモ自由ハ死セン」とあったという。 作り話とするにはいささか疑念が残る気もするが。 (余談。犯人の相原尚褧はその後赦免され、北海道の植民事業のため北海道に向かうが、その後行方不明になったと言われている。自殺したとも、誤って海に転落したとも、相原の背後にいた板垣襲撃を計画した者に殺害されたともいわれており、真相は不明である。) 相変わらず在野にいる八重(綾瀬はるか)。 襄(オダギリジョー)と娘夫婦と一緒に伝道のため会津に向かう。 娘夫婦も伝道に頑張っているという話だが、耶蘇と呼ばれたキリスト教がよく皆々に受け入れられたと思う。 さぞかし偏見も多かったと思うが。 時の流れは残酷なもので、会津城は取り壊され、既に長屋になっていた。 荒城の月を思い出すこの状況。 かすかな角場(鉄砲の練習をする場所)の造りを見つけて喜ぶ八重。 やはり変わらないものもあったと。 そこで懐かしの奉公人夫婦に会う。 彼らからうら(長谷川京子)の居場所を聞き出す。 みね(三根梓)はうらに会って、再び家族で暮らそうと言う。 とは言っても実家に帰って(乱れ髪が痛い・・。)、別の生き様を選ぶことにしたうらにとっては、やはり迷惑な話か。 みねの道中無事と嫁入りしたことだけでも喜びであったろう。 さてさて、山中家は懐かしい人が戻ってきました。 山川捨松(水原希子) 外国暮らしが長くて日本語を忘れてしまったのかと思えるほど。 そんな人いたな、とふと思い出す感じで感銘はないけれど。 |
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山本覚馬(西島秀俊)はそれなりに京都府議長として権力があったわけだ。
新聞に訴えて世論を動かし、槇村正直(高嶋政宏)の府政を批判。 1880年10月に京都府会の同意を得ず地租追徴を決定する。 山本覚馬が議長を務める府会は反発した。 ドラマではこれを期に明治政府を倒す勢力が出てくるのではと憂慮する槇村だったけど。 結局追徴を撤回し府会に追徴議案を提出し、議案は可決する。 槇村にしてみれば結果オーライだったのでは? 一方で覚馬の娘・みね(三根梓)は母のために山本家を残したかったようだけど、すんなりと結婚に行くことを認めた覚馬に反発と。 八重(綾瀬はるか)は会津戦争の経験を軸に、『変えられるのは先のことだけ』と諭す八重。 覚馬の娘として、結婚した時の峰の気持ちはいかがだったか。 さて、自由民権運動が高まり、大隈重信(のちにイギリス流議会政治を目指す立憲改進党を形成。)を代表として国会開設の建白書を出す。 政府は大隈を野に下らせる代わりに国会開設の詔を出すが。 これはいわゆる飴と鞭といった感じか。 これを期に私立大学を開設すると宣言する襄。 そのまえに会津に行くみたいだけど、何を体験する? |
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同志社学校も4年たち、第1の卒業生が出てくる中で、京都府からは廃校を命ぜられ、外国人教師からは伝道教育の強化・・・と無理を言ってくる。
襄(オダギリジョー)は優柔不断なところが多いからねえ。 そんな弱々しいところが弱点か。 欧米人らしくひげもはやしたけど、そこが弱点か・・・。 それを補おうと刀傷は日本人を斬ったと嘘をつく八重(綾瀬はるか)。 そのハッタリがかえって学生たちを奮い立たせちゃうわけね。 そこで授業をボイコットして襄に文句を言ってくると。 とはいえ、今回は八重がいけないような気が・・・。 傷を利用してあんなハッタリかますから・・・。 結局は襄が校長としての矜持を示して、結果オーライではあるけれど。 自由民権運動が起こる前に、京都府でも府議会議員と県知事との対立があったと。 その時の議長が覚馬(西島秀俊)だけど、ホント偉くなったものだねえ。 ヒゲまではやしちゃって。 (江戸ではやらなかったひげを、欧米に追いつけ追い越せで真似ていたからねえ。) 襄の両親ともあったけど、やはり伝統的な日本文化に触れてきた両親には、上の態度が理解できなかったみたいだねえ。 ・・・それにしてもなんだか今日は話が短かったような気分。 |
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